2.21.2009

旅をする、言葉たち

「アメリカ」と聞いて、なにを思うだろうか。
わたしは、ある風景をすぐさま思う。
この道は、地球の裏側まで繋がっているのだろうかと思わせる、
果てしなく伸びる路上。
左も右も、見渡す限りあるのは、平野のみ。
ときにそれは畑となり、ダイナーとガススタンドがポツンと現れる。
歩く人はいない。と思ったら、ヒッチハイカーとすれ違う。
遠く反対車線から大型トラックが、蜃気楼の中やってくる。
どこからきて、どこへ向かうのだろう。
すれ違い様、車窓から左手を挙げて互いの幸運を祈る。
これが、わたしの「アメリカ」。

といっても、わたしはNYとhawaiiしかアメリカを知らない。
でも、NYはNY、hawaiiはhawaii。
どちらもアメリカ、という意識は薄い。
反対に、上に書いた情景こそアメリカ、と感じる。
なぜなのだろう。
その理由のひとつには、ケルアックがある。

50年前、ジャック・ケルアックは『On the Road』を書き上げた。
アメリカ横縦断の旅。
相棒は、女酒ドラッグが基盤だけど人間臭くて魅力のあるディーン。
後にこの文学(他に作家・詩人のギンズバーグ、バロウズも)は
“ビートニク”と呼ばれ、
文学界を飛び出したカルチャーとして今なおその影響は大きい。

いま、書店では、写真家ロバート・フランクを特集した
雑誌『coyote』が並んでいる。



coyote no.35 march 2009
スイッチパブリッリング発行







1955年スイスから移住したフランクは、
ライカを片手に「アメリカ」を撮った。
彼の「アメリカ」を一冊にした写真集『The Americans』刊行から
今年で50年。
彼の軌跡を語れるほど彼の写真に精通していないが、
今号でとても興味深いページがあった。
58年、フランクと共にドライブの旅に出たケルアックの文章に出くわしたのだ。

NYからフロリダへの旅路。
一方は写真を、一方は文学を、自己表現の術とするふたりの男。
ここでも、ケルアックの空気を読み取る感受性とそれを言葉にする文才は
咲いている。

交差点の信号の寂しげなたたずまい。
暮れなずむ彼方を背景に、電話線が弧を描いて垂れている。
その彼方へと別のトラックが頑固な面持で向かって行く。
目指すは人間的なゴールか、沸き立つ歓びか、休息か。
              (『coyote』“On the Road to Florida”より)

あるアメリカの町角。そこにあるすべてが、瞬時に流れ込んでくる言葉たち。
ケルアックは、実に巧みに言葉に息を吹き込む作家だ。

『On the Road』もそうだが、ケルアックが書く相棒像は
尊敬と友情でえがかれる。
カメラを片手にどこであろうとうろうろ歩き回り、
見たいものを撮るフランクの姿にケルアックは驚愕しながらも、
「決定的瞬間のまわりをうろついているこの写真家自身のショットが撮りたい」
という。
そして、この旅の締めくくりは、「もの書きのための教訓」として
優れた写真家のあとに付いて、カメラを向けるものを見ること、とする。
結果、それが「アメリカ」なのだから、と。

フランクの写真然り、ケルアックの言葉たちは「アメリカ」そのものだ。
わたしにとっては、まさにこれが「アメリカ」だ。
果てなくつづく、文学の旅路。
いつか路上に佇み、旅をする言葉たちと左手を交わしたい。