4.28.2009

ある人間もよう

本当の友情関係って、なんだろう。
信頼関係って、なにをいうのだろう。
絆を断ち切って、断ち切られて、
それでもまた、関係を紡いでいくのだろうか。







世界文学全集シリーズ
『アルトゥーロの島』モランテ
『モンテ・フェルモの丘の家』ギンズブルグ
河出書房新社


世界文学全集シリーズの、
目の覚めるような黄色いこの分厚い本を読もうと思ったのは、
昨年11月のhawaiiでだった。
島に行くのだから、島の本を…と単細胞的な思いつきから
旅のお供に持っていったものの、見事にお荷物にしかならなかった。
なぜなら、hawaiiの地から受ける力と、
この本の舞台ナポリ湾の小島に流れる力が、うまく合わなかったからだ。
どちらにも中途半端な感情移入しかできないと思い、
この本を旅のお供にするのは諦めた。
東京に戻り、何冊も浮気をしながらちょこちょこ読み進め、
先日、完読。
ここには、まだ見ぬ地・イタリアの空気が流れていた。

『アルトゥーロの島』は、自然が友である少年アルトゥーロの物語。
聖なる島に閉じこめられたように暮らす彼と、しょっちゅう旅へ出る父親。
顔も身体も彫刻のように美しい父を慕い、女のいない館で暮らしていたが、
あるとき旅から戻った父が、若い新妻を連れてくる。
少年は、強い反感を抱き、以前の生活を取り戻したいと願うが、
月日は流れ父は島を離れがちになり、少年の中に若き継母へのある感情が
芽生えるようになる。
父と継母、それぞれへの少年の想い。
子どもから美しい少年へと変化していく身体に比例するように、
少年の心に沸き起こる感情も変化していく。
昼ドラのような設定も、イタリアの島の圧倒的な景色と、
現代の常識など意味のない自然界とのつながりが強い暮らし、
そして少年の瑞々しさにより、すがすがしい世界になる。
ラスト、島の外の世界へと飛び立とうとする少年が、
とても眩い。

収められたもうひとつの物語『モンテ・フェルモの丘の家』。
モンテ・フェルモの館「マルゲリーテ」は、かつて若者たちが集う場所だった。
情愛が入り混ざりつつも、この場が消えることなど考えもしなかった絆。
時は流れ、家庭を持ち子どもが生まれと、皆が自分の人生を歩んでいたとき。
ジュゼッペが、ローマを離れ兄のいるアメリカへ移住を決意したことで
彼らの関係が再び息を吹き返す。
物語は、すべて手紙で進む。
はじまりは、ジュゼッペがかつての愛人で「マルゲリーテ」に暮らす
ルクレティアへ宛てた手紙。
そこから仲間たち(中には親子も)が近況を報告しつつ、昔話を懐かしんで
それぞれを想いながら手紙を綴る。
時には、手紙の向こうの友の恋人を痛烈に批判する(ブスとか…)。
欧州人らしく、自己中心というか、私はどう思うか、どうしたいか、を
ハッキリと言葉にする。
それでも、無条件に仲間を想う。
彼らは、いくつもの喪失を経験しながら生きていく。
かつての溜まり場だった「マルゲリーテ」も、もうない。
遠く離れて暮らす、古き友。
決して美しい友情ではないけれど、不格好ながら温かくて信頼できる絆。
だから、ときに辛辣な想いもぶつけられる。
いくつもの糸が行き交い、絡み合いながら、ときに切れそうになりながらも
しっかりと糸の先は繋がっている。
それは、手を離さずに掴んでいてくれる友がいるから。

糸を引き合う力、感じているだろうか。

4.27.2009

ピアノの音色でうたう人

今から5年程前、ある映画を観た。
『この世の外へ〜クラブ進駐軍』。
戦後の日本で、ジャズを生きがいにするジャズメン5人の話だ。
ジャズバンドメンバーには、村上淳、松岡俊介、そしてオダギリジョー。
メチャクチャだった時代に、夢を追いかけ、
かつて敵だったアメリカ進駐兵と音楽を通じて友情を芽生えさせる男たち。
はっきり言って、映画自体に思い入れはないし、
まぁまぁ…という感じだったが、
この映画で印象に刻まれたのは、村上淳演じたピアノ弾きの
ピアノだった。

つい先日、大橋トリオという人のアルバムを聴いて、
一瞬で気に入ってしまいプロフィールを見たとき。
「映画音楽を担当」という箇所を読んで、すぐにピンときた。
シックス・センスなぞまったくないのに(違うか)、
もしやあのときのあのピアノは…と5年前の引き出しが開いた気がした。

普段働かないわたしの勘は、このときばかりは見事に的中したのだが、
大橋トリオのソロアルバムは、とても嬉しい。
数年前の「THIS IS MUSIC」(写真上)を聴いて、
あぁピアノを弾く人の声だなぁとしみじみした。
楽器に触れている人の歌は、どこか含みがある。
ギターを弾く人の歌と、ピアノを弾く人の歌はやはり違う。
ピアノを弾く人の歌は、優しさと強さがある。
芯は強いんだけれど、それを優しさが覆っていて、だから表立つのは優しさ、
というような、そんな感じだ。
ピアノそのものが持つ力と存在感の強さを知っている人だけが持つ、
優しさと強さ。
とても嬉しい気持ちで満たされる。

大橋トリオ、といってもトリオではない。
大橋好規のソロ名義だ。
映画音楽を数多く手掛けてきただけあり、
彼は情景を歌う人。
とてもよく晴れてキラキラと眩しい景色もいいけれど、
雨の日に車の窓から見る都会の景色もいい。
彼の音楽を聴いていると、素直にあぁキレイな日だなと、思えてくる。
なんでもない日常に、そっと寄り添ってくれる音楽とは
こういう音楽のことをいうのだろう。
主張しすぎず、でも存在の面白さがある。
だから、一緒にいたいと思う。
恋人に想う気持ちと、同じかもしれない。





5月13日メジャーデビュー
「A BIRD」

4.20.2009

フィクションとノンフィクションの壁

誰かと話をしているとき、相手の求めている‘面白さ’や‘盛り上がり’の期待に
応えようと、
ついつい実際よりも大袈裟に表現してしまったことはないだろうか。
それが話のプロではなく一般人が話す場合なら、
まだ事は大きくならないかもしれない。
怖いのは、その道のプロが、
フィクションとノンフィクションの境目を超えてしまうことだ。

映画『ニュースの天才』は、98年に実際に起きた
権威ある政治雑誌『ニューリパブリック』で
ねつ造記事を書いた記者を題材に描いた作品だ。
スティーブン・グラスは、編集部でも若き有望記者として信頼を集めていた。
編集会議では、彼が追いかけるネタに、皆が夢中となる。
確かに、彼の目の付け所は面白い。
バカらしいスキャンダルというより、誰もがちょっと興味をひかれる
そんな話を追求して記事にする。
まさに、‘需要と供給’の世界。
しかし、あるハッカー少年の記事に、別のネットマガジンの編集者が
疑問を抱いたことから、事態は急変する。
グラスは、編集長から真実を求められ、
ついには編集部を去ることとなる。
フタを開けてみたら、41の記事にうち、27がねつ造記事、
つまりウソだったわけだ。
ありもしない、ニュース。

今も昔も、メディアは世間を踊らせる存在だ。
なくなってはならないが、行き過ぎの傾向も否めない。
ただ、事実ではないことをエゴのために発信してしまうのは、
ジャーナリストとしてあるまじき行為。
ときに世間や周囲の期待に過度に敏感であることは、
ジャーナリストとしての真髄を通り越してしまう。
その期待に応えようと、ついつい…と領域を侵してしまう。
グラスの場合、人々からの愛と高い名声を求め過ぎた。
それには、医者か弁護士ではないと認めないという家庭が影響している。
だから、TVに出る程の有名記者にならなければ、と。
しかしそれは、真のジャーナリストの根本にある想いだろうか。
発信する側は、自分の名前のクレジットに、
重い重い責任を背負わねばならないのに。
親への建前が動機で、何の真実を語れるのだろう。

本編のDVDでは、実際のグラスや当時の編集長のインタビューが観られる。
彼は、5年間セラピーを受け、今は立ち直ろうとしている、
フィクションを出版(自分の体験談のような)し、
弁護士になるために勉強中だが、自分がしてしまったことを謝罪したい、と
インタビュー映像に出演している。
しかし、どうも腑に落ちないのは、わたしだけだろうか。
自身を彷彿とさせるフィクションだって、
結局はグラス自身にスポットが当たる。
メディアの威力を知っている彼だからこそ、
そのメディアを利用して立ち直ろうとしているのではないか。
そう思えてならない。
そして結局は、最終的に親の望んだ弁護士になろうとしている。
一度は書く道のプロとなったのだから、
親のためではなく、その道を突き進んでほしかった。

それにしても、本編にも登場するが編集長という立場の描き方が
とてもリアルで人間味があった。
実在の当時の編集長もインタビューで見る限り、映画のような人格だった。
部下を守ろうとするが、やはり自身も真実を追求する一ジャーナリスト。
その真摯な姿勢が、とても誠実で救われた想いがした。





ニュースの天才
(原題:SHATTERED GLASS)