誰かと話をしているとき、相手の求めている‘面白さ’や‘盛り上がり’の期待に
応えようと、
ついつい実際よりも大袈裟に表現してしまったことはないだろうか。
それが話のプロではなく一般人が話す場合なら、
まだ事は大きくならないかもしれない。
怖いのは、その道のプロが、
フィクションとノンフィクションの境目を超えてしまうことだ。
映画『ニュースの天才』は、98年に実際に起きた
権威ある政治雑誌『ニューリパブリック』で
ねつ造記事を書いた記者を題材に描いた作品だ。
スティーブン・グラスは、編集部でも若き有望記者として信頼を集めていた。
編集会議では、彼が追いかけるネタに、皆が夢中となる。
確かに、彼の目の付け所は面白い。
バカらしいスキャンダルというより、誰もがちょっと興味をひかれる
そんな話を追求して記事にする。
まさに、‘需要と供給’の世界。
しかし、あるハッカー少年の記事に、別のネットマガジンの編集者が
疑問を抱いたことから、事態は急変する。
グラスは、編集長から真実を求められ、
ついには編集部を去ることとなる。
フタを開けてみたら、41の記事にうち、27がねつ造記事、
つまりウソだったわけだ。
ありもしない、ニュース。
今も昔も、メディアは世間を踊らせる存在だ。
なくなってはならないが、行き過ぎの傾向も否めない。
ただ、事実ではないことをエゴのために発信してしまうのは、
ジャーナリストとしてあるまじき行為。
ときに世間や周囲の期待に過度に敏感であることは、
ジャーナリストとしての真髄を通り越してしまう。
その期待に応えようと、ついつい…と領域を侵してしまう。
グラスの場合、人々からの愛と高い名声を求め過ぎた。
それには、医者か弁護士ではないと認めないという家庭が影響している。
だから、TVに出る程の有名記者にならなければ、と。
しかしそれは、真のジャーナリストの根本にある想いだろうか。
発信する側は、自分の名前のクレジットに、
重い重い責任を背負わねばならないのに。
親への建前が動機で、何の真実を語れるのだろう。
本編のDVDでは、実際のグラスや当時の編集長のインタビューが観られる。
彼は、5年間セラピーを受け、今は立ち直ろうとしている、
フィクションを出版(自分の体験談のような)し、
弁護士になるために勉強中だが、自分がしてしまったことを謝罪したい、と
インタビュー映像に出演している。
しかし、どうも腑に落ちないのは、わたしだけだろうか。
自身を彷彿とさせるフィクションだって、
結局はグラス自身にスポットが当たる。
メディアの威力を知っている彼だからこそ、
そのメディアを利用して立ち直ろうとしているのではないか。
そう思えてならない。
そして結局は、最終的に親の望んだ弁護士になろうとしている。
一度は書く道のプロとなったのだから、
親のためではなく、その道を突き進んでほしかった。
それにしても、本編にも登場するが編集長という立場の描き方が
とてもリアルで人間味があった。
実在の当時の編集長もインタビューで見る限り、映画のような人格だった。
部下を守ろうとするが、やはり自身も真実を追求する一ジャーナリスト。
その真摯な姿勢が、とても誠実で救われた想いがした。
ニュースの天才
(原題:SHATTERED GLASS)